ブログを書くために手帳を見る。
あの子が飛び降りた日の午前までの記録はあるのだが、午後は一旦帰宅した時間と各科の医師からの説明の時間の記入しかない。
今も思い出そうとしてもほとんど思い出せない。
本当にわけのわからない一日だった。
実家へ電話をする
実家へ電話をする。
これが一番したくないことだった。
両親にとってあの子は初孫だ。
私たちが転勤になったときだって新幹線に乗って月に一度は会いに来てくれたり、成長をずっと見守ってくれていた。
「もしもし、昨日はお世話になりました。」
下の子が代休で、日帰りでちょうど前日に遊びに行ったのでそのお礼を言う。
「あのね、バカ○○のことなんだけど・・・
ビルから飛び降りた。」
やっぱり、私はここで泣くのを我慢できなかった。
母は絶句して、
「早まったことを・・・なんで・・・」
と呻くように言い、
「あんた大丈夫?今からそっち行くから!しばらく泊まるから!!○○(下の子)の世話もあるでしょ?」
と、私がなんとか自分たちでやるから大丈夫、という言葉をさえぎって言うと電話を切った。
そういえば、私があの子を出産後に鬱っぽくなった時も、何も言わず母は夜中に飛んできてくれたっけ、とあの子の部屋で受話器を握りしめたままぼんやり思った。
実家の両親と再び面会へ
その病院の一般病棟の面会時間は終日フリーだったが、集中治療室は時間も回数も限られていた。
私たちの場合は入院したばかりということで、この日は面会時間外の入室も許可が下りた。
両親と共にICUへ入る。
下の子は恐怖心でいっぱいのため、主人と家族控室で待っていてもらうことにした。
父はあの子の包帯だらけの姿を見て、何も言わず涙を流していた。
母は何か語り掛けていたような記憶がある。
「こっちの手だったら触っても大丈夫だよ。」
と両親に手を触ってもらう。
両親が悲しむ姿を見て、大切な孫をこんな目に遭わせてごめんなさい、と心の中で謝った。
帰りに入院時に着ていた服が入ったビニール袋をスタッフから渡された。
怒りと情けなさと悲しみと
一旦帰宅したが、夕方には各科の医師から手術の説明等があるため再び病院へ向かうことになっていた。
これ以上下の子を連れて病院へ行くことは、精神的によくないと考え、やはり母の言葉に甘えてしばらくうちに泊まってもらうことにした。
約束まで時間があったので、あの子のものを整理することにした。
何か体を動かしていないと落ち着かなかった。
病院から持ち帰ったビニール袋の中をそっとのぞいた。
血に染まった靴が見えた。
あの子の一番のお気に入りだった服の柄が見えた。
ポケットに他に遺書か何か入っていないだろうかと確かめようと思ったが、触ることができなかった。
飛び降りるまでと飛び降りたときのあの子の気持ち・痛さ、私たちに与えたダメージ、気づけなかった情けなさ・・・いろんなことが一気に襲い掛かってきて、
「なんで飛び降りなんかしてんのよ!バカ!!バカヤロウ!!!」
と、泣きながらビニール袋を蹴っていた。
母が後ろから、
ホントだ、ホントだ。なにやってんだ!だよね。
と静かに背中をさすってくれていた。
あぁ、もったいない
めくりあげただけの布団
散らかった教科書やノート
買ったばかりの部活の道具
衣替えの準備だけして一度も袖を通さなかった制服・・・
自分の家なのに、写真か何かを見ているようだった。
シーツは洗ってしまっておこうかね。
制服もアイロンをかけて引きだしへ入れておこう。
「この道具高かったんだよねー。新しい部活張り切ってて、一緒に練習やらされたんだよー。」
「まったく、お金がもったいないっつーの!」
独り言のような、心配で後ろで何も言わずに立っている母に話しかけているような、よくわからない口調で話し続ける。
思い浮かんだものをどんどん言葉にして脳から出していかないと、頭がおかしくなりそうだった。
つづく。
おわりに
このページは自殺未遂をした家族(子ども)を抱える私の体験を振り返ったものである。
こんなプライベートなことを、ブログという媒体を通して全世界に公開しているなんてどうかしている、と自分でも思う。
私の個人的な体験を振り返ってもあの子が自殺未遂をした事実は変わらないし、それを受け入れる日が来るのもわからない。
でも、なぜか書き残しておきたいとずっと思っていた。
少しずつ、あの日もその前からもずっと記録をつけていた手帳を元に記事にしていきたい。
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