人工呼吸器が取れた。手も足も動く、話しもできる Day1

入院患者 子どもの自殺未遂の記録

わけがわからない長いような短いような一日が終わったが、やはり頭の中は混乱状態で一睡もできなかった。

仕事以外で一睡もできなかったのは、これが初めてのような気がする。

意識が戻った

午前中面会へ行くと、午後の抜管に向けて鎮静剤を減らしていた。

声をかけると、うっすらと目を開ける。

あの子の頭をなでながら、

辛かったね。

(頷く)

気づかなくてゴメンね。

(首を振る)

何か言おうとしていたが、口の管が入ったままで話せないし、読み取ることもできない。

まだ口の管が入ったままだから話せないからね。お昼には抜いてくれるって。

泣かないでいようとしたけれど、やっぱり泣いてしまう。

鎮静剤の作用で話しかけていないとすぐにウトウトとしてしまう。

また午後来るからね。

そう言って、ベッドから離れた。

モヤがかかったままの頭の中

一旦帰宅して、なべ焼きうどんを作り、まったく食べる気がしなかったが少しだけ押し込む。

何か口にするとすぐにお腹が痛くなってトイレへ。

午後から義父母が来る予定になっていた。

一睡もしていない、完全に判断力が低下している今の状態では私自身何を言うかわからない。

頑張って昼寝をしてみることにした。

主人も同じように横になる。

一人になりたくて、私は下の子の布団に横になる。

離れた位置から夫婦であの子のことを話す。

何が原因だったんだろう、
学校・友達、将来のこと、、、

昨日から同じことばかり話している。

もちろん、答えは出ない。

そしていつの間にか眠っていた。

義父母が来る

そういえば、お義父さんとお義母さんが来るんじゃん!

ハッと目が覚めた。

一緒に横になったはずの主人もいない。

1時間以上寝たようだ。

リビングに義父母が座っている。

「眠れた?」

と笑顔で義母が聞いてくれる。

その間がよそよそしくて、余計に疲れる。

義母は繊細で傷つきやすい人だ。

自分たち以上に私たち夫婦が傷つき、落ち込んでいるだろうと、心配そうな顔でこちらを見ている。

睡眠だと思うの。

突然義母は持論を語りだした。

義母は繊細だが思い込みも激しい、典型的なB型人間だ。

ここで話しの骨を折るとかえって面倒なことになるのを私たちは学んだ。

彼女も高齢で、順番からいえば私たちよりあの世のお迎えが早い。ならば、悔いのない余生を、ということで、話したいだけ話させてあげることにするのが私たち夫婦のコンセンサス。

肉親である主人は違った。

いつもはスルーするところを

ちゃんと寝てましたから。あなたのケースと違う。

と反論していた。

その直後、同じく典型的B型人間の私の父が、感極まって声を詰まらせながら、まったく関連のないことを言っていた。

衝撃の大きさに父が何を言ったかさえ覚えていない。

的外れすぎて呆れて返す言葉がなく、文字通り私の頭は思考停止していた。

親子は難しい。

子育てを失敗したとは思っていない

なんとなく私が話す順番になった。

自殺未遂という大変なことになったが、私はあの子の子育てを失敗したとは思っていない。失敗した、ということはあの子自身が失敗作であり、あの子のこれまでを否定することになる。生きていてくれた、ということはああしてあげれば良かった、こうするとどうかな?という反省や後悔を次に活かすことができるということ。やり直しさせてもらえるということ。こんなにありがたいことはない。実は極端なあの子の性格や日頃の行動を見ていて、こういう事態になる可能性がゼロではないことをなんとなく感じていた。その不安を解消するのはあの子が経験を積むことだろうと思っていた。あと10年時間が欲しかった。

こんなようなことを話したように思う。

泣かないつもりだったが、泣いていた。

大人の会話に混ざらないよう、母が別室で下の子の相手をしてくれていたのがありがたかった。

午後に人工呼吸器が外れる

ICUの面会人数に制限があるため、私たち夫婦と義父母がまず面会する。

あの子はもう人工呼吸器が外れていた。

さすがに多発性外傷で骨折部位が多いため、鎮静剤はごく少量点滴で入っていた。

元々痛み刺激に鈍感なのもあり、鎮静剤が少ない量でも痛みをそれほど感じないのだろう。折れている両足を曲げたり伸ばしたりゴソゴソと動いていた。

○○ー。おじいちゃんとおばあちゃんがお見舞いに来てくれたよー。

そうっと、優しく呼び掛ける。

うっすらと目を開ける。

手を動かし、

ボードちょうだい。

とかすれた低い声で返事が返ってきた。

ボード??

どうやら、人工呼吸器がつながったままのときは、ボードを使ってスタッフと会話をしていたようだ。

看護師さんに、

もう口の管ないから、自分でしゃべって大丈夫だよー。

と笑いながら声をかけられる。

しばらくして、私の両親と交代する。

話しができたことで、ほんの少しだけ双方の両親ともホッとしたようだった。

待合室で下の子と待っている主人と交代してもらい、私たち二人だけで面会をする。

骨折してるの?・・・え~~~

最初の会話は、

骨折れてる?

だった。

あの子の体や私の体に触れながら、順に骨折箇所をおしえていくと、だまって聞いていた。

足は?

両足だよ。

少し間があり、

えーーー・・・

となんとも間抜けな緊張感のない「えー」が返ってきた。

足から着地したのだから、当然だ。

そもそも、飛び降りて骨折なんて当たり前じゃなかろうか。自身が起こした飛び降りという事実と、大けがをしたという現実の乖離。

なんともシュールな返答に思わず笑いがこみあげてきた。

次の質問は、

粉砕骨折?

だった。

冷静だねぇ・・・思わず苦笑しながら、

そうだね。

と答えた。

鎮静剤の影響で動きもしゃべりもスローなあの子がとっても幼く見えて、久々にかわいいな、と思った。

こんな状況でかわいい、なんていう感覚を思い出したことが悲しかったし、寂しかった。

あとは何を話しただろう。

口の中痛いからあまりしゃべらせないでー・・・。

わかった。ちょっと休もうね。

そういうと、すぐにあの子はウトウトとしだした。

つづく。

おわりに

このページは自殺未遂をした家族(子ども)を抱える私の体験を振り返ったものである。

こんなプライベートなことを、ブログという媒体を通して全世界に公開しているなんてどうかしている、と自分でも思う。

私の個人的な体験を振り返ってもあの子が自殺未遂をした事実は変わらないし、それを受け入れる日が来るのもわからない。

でも、なぜか書き残しておきたいとずっと思っていた。

少しずつ、あの日もその前からもずっと記録をつけていた手帳を元に記事にしていきたい。

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