あれから4年

笑う 子どもの自殺未遂の記録

忙しくしていたせいで,すっかり更新が滞っている。慌ただしい毎日が送れる幸せ。そういったことをこの場所は思い出させてくれる。

当時の記録から時間は随分先へ飛ぶが,今のあの子と我が家の様子を残しておこうと思う。

生きることを一度は諦めた全ての人とその家族の皆さまへ。

大学生になる

この4月からあの子は大学生になった。大学生になるまでも平坦な道ではなかったが,なんとか乗り越えた。それまでの話しは一旦中断しているあの日からの記録の続きで記そうと思う。

アルバイトも始めた。たまたま同じ大学の先輩がいるそうでかわいがってもらっているらしい。小さな頃から年上にはよく可愛がられていた。精神的に幼く同年齢ではすることも感じることもなんとなくズレを感じていたのだろう。トラブルを起こすのはいつも同学年の子どもとだった。その幼さが年上の子たちには危なっかしく見えて世話を焼かずにはいられないと思わせていたのかもしれない。

今どきの大学生はSNSで連絡を取り合い,そこから初めてリアルで顔を合わせるようだ。気の合う友人も何人かできしょっちゅう大学の帰りはスタバでおしゃべりしたり,ご飯を食べに行ったり,映画を見に行ったり,ショッピングについてきてもらいセンスのないあの子のためにコーディネートをしてもらったり,とよくしてもらっているようだ。

なぜ学校帰りの行動を知っているのかというと,「今日は○○へ行ってきた」だとか一日にあったこと,友人のことを楽しそうに話してくれるからである。年の離れた弟と同じかそれより下ぐらいの精神年齢かもしれない。幼くて真っすぐなのだ。その特性があの子に飛び降りるという選択をさせた大きな要因ではないかと思っている。

平日は大学とアルバイト,友達付き合いととても充実している様子である。本人も「忙しい!いろんなやりたいことがあるんだけどなぁ。」とうれしそうに言っている。

一日中やっていたオンラインゲームは週末だけに

一番驚いたことは,平日は全くオンラインゲームをしなくなったことだ。平日は前述したように大学とその後の友達付き合いとアルバイト,課題でさすがに睡眠時間を確保しないと厳しい生活になっている。ゲームより楽しいからリアルの生活を優先するようになった。

私は昔の人間なので,ゲームなんて時間(時にお金)を消費し現実逃避するだけの無駄なものという考えだ。しかし,今のあの子をこの世に繋ぎとめてくれていたのもゲームだったと言わざるを得ない。

今では週末だけゲームを楽しんでいる。うれしそうにエナジードリンクとコンビニ惣菜を買ってきて,朝までオンラインゲーム仲間とゲームをしている。

月曜日はまた大学の授業があるし,昼夜逆転は通常のリズムへ心身を戻すのに時間がかかるのも知っているし,偏頭痛もちなのでそれが起きるリスクが高まるのを知っていても昔の仲間と楽しくやりたい思いが勝つらしい。

家の中でイライラしたりふさぎ込むわけでもないし,あの子はもう成人なのだから私は口出しはしていない。

大学生になったら渡そうと思っていたお年玉などを貯めたの本人の貯金とアルバイト代,祖父母からの入学祝いで念願の自分専用の自作パソコンを購入するそうだ。毎週値段チェックに余念がない。

様々な目標を持つ

高校生と浪人時代はその日一日をやり過ごすので精一杯だった。先のことなんて考える余裕はないように見えた。

今は希望の学部に入り,大学院へ進んでこんなことを研究してみたい,時間のある学生のうちにこんなアプリを作ってみたい,こんな資格を取ってみたい,夏までに筋トレをして腹筋を割りたいなど,様々な目標を話すようになった。

4年前,あの子に経験さえあれば避けられたのではないかと思った私にとっては最悪のあの子の選択。あの経験はあの子にとって今どのような影響を及ぼしているのか,直接聞いたことがないのでわからない。けれど辛いこと,うれしいこと,悲しいこと,怒れること,楽しいこと,様々なこの4年間の経験があの子を今に繋ぎとめ,さらに未来を見る余裕を生んでいるのだと思う。

おわりに

いつもと違う偏頭痛の痛みに脳の疾患を疑い,とても不安そうに「ちょっと心配なんだけど」と言っていたあの子。痛みや死を恐れているのだ。

幸い後遺症らしい後遺症も残らず,いわゆる充実した日々を過ごし,はたから見ていても本当に楽しそうだし,生きている喜びを感じる。

死ぬほど辛い状況をなんとか耐えたら楽しいことが待っているとは限らない。だから今辛い思いをしている人たちになんとかなるよ,などと軽いことは言えない。けれど,こういう人生を送っている若者とその家族がいることは知っていてもいいかもしれない。

あの子が生きているということ,存在しているということ,笑っているということ,未来のことを話すということ,家族と会話する姿が見られるということ,すべてが奇跡であるということ。

人はいつか自然にその命を終える日を迎える。その日まであの子を含む私の周りの奇跡を目にしていたい。

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