義父母と私たち夫婦との関係は悪いものではないが、どちらかというと私たちとしては物理的にも心理的にも距離を置きたいと思っている間柄だ。
遠く離れて住み、常日頃それほど頻繁にこちらの様子を伝えているわけではない義父母。
すぐに駆け付けられない距離だからこそ募る不安や心配は頭ではわかるつもりだ。
ただ、わが子のことだけで精いっぱいな時、正直義父母への対応は疲れる。
あの子のことと、家族と自分の生活で精一杯
自分たちの子どもが飛び降り自殺を図った、というメガトン級の衝撃を私たちは受けながら、見舞いだけでなく、連日の医師からの病状や手術の説明、手術待機、下の子のフォロー、学校とのやり取り・・・
飲まず食わずでいるわけにはいかないから、自分たちの食事など家事全般、休息を合間にねじ込みながらギリギリの精神・体力の状態でなんとか回していた。
面会が終わって家に帰り、ホッと一息つこうと思うと、
携帯電話には着信履歴
自宅の電話には留守メッセージ
もちろん、義母からである。
帰宅するたびに留守番電話のライトが点滅するのを見て、気が滅入った。
かわいい孫のことを心配するのは当然だし、毎日電話をして様子を知りたいのもわかる。
それぐらいのこと、気持ちよく対応できないのか?と自分でも思う。
実母とは、あの子の産後からよくある親子(母子)間のわだかまりみたいなものを少しずつ解消していって、今ではある程度頼れるようになった。
義母とはそういったいろいろな時間を共有していないというのもあるし、典型的B型マイペースな人柄が合わないのだ。
こちらに気を遣って、毎回励ましてくれるが、そっとしておいてほしい、というのが正直なところだった。
気を抜かないでね・・・?
数日前に、何かお見舞いになるものを、と電話があり、その荷物が届いた。
箱を開けるとお見舞いの品と一緒に封筒が入っている。
そこには、
『体調は落ち着いていると聞いていますが、気を抜かないで、注意深く見守ってあげてください。』
と書いてあった。
こういうところなのだ。
思ったことを一旦自分の中で留めることなく、放出してしまう義母なりの思いやり。
孫が心配なんだから、仕方ない。
と思おうとした。
けれど、連日の睡眠不足、疲労、精神的なショックで、我慢の閾値が底をついていたのだろう。
下の子が遊んでいたラジコンの音がうるさくて胸に突き刺さり、うるさい!と怒鳴ってラジコンを取り上げ、電源を切り、病院へ向かう車の中でわんわん泣いた。
主人も同じように感じていた
主人が帰宅し、見舞いの品と例の手紙を渡した。
主人は手紙に目を通した後、
はぁ・・・・・
と大きなため息をつき、封筒を机の上に投げ捨てた。
こういうところなんだよな。昔からそう。言わなくていい一言を言ってこじらせるんだ。気が抜けねーなぁ、って思ってるところに、気抜くなって書かれると怒り通り越して何も言葉が出ないね。グッタリする。
あぁ、私と同じことを思っていた。
こういうとき、私は同調しない。
聞きに徹する。
どんな親でも、主人を生み、育てた実の親には変わらない。嫁の私が彼の親のことを直接悪く言うのは何だか違う、と思うからだ。
主人には父親からのメール攻撃が
デジタルに弱い義母は私あての電話で、
メールで済ませることが多い義父は、毎日どころか、多い時は日に何回も主人へメールを送っていたようだった。
返事がないと、同じ内容のメールを私あてに転送してきた。
主人曰く内容はいつもほぼ同じ。
今は暗闇でも、必ず光が差します
家族も上手く気分転換を
・・・
この
私たち家族は失意のどん底で、希望も何もなく、途方に暮れているだろうから、励ましを
タイプのメールは、あの子が随分回復し、これまでと変わらず普通に親子でバカ話しをし、結局自殺企図のこれといった原因も見当たらず、それよりは今と前を向いて日々を過ごしていこう、と私たちはかなり見方を変えた頃になっても続いた。
主人は、
毎回メールの内容が重いし、回数も多いから返信していない。
と話してくれた。
義父母は高齢だ。
自分たちがこうだ!と思ったことは、まず、曲げない。
こちらが適宜あの子の様子を説明しても、だ。
状況が状況だけに、電話するな、しょっちゅうメールするな、とも言えない。
自分たちのことだけでなく、電話やメールなどを通して、こうやって年老いた義父母の気持ちに応えるように振舞うのは、ありがたいけれどやはり疲れる。
何かあったら連絡してね。
これで十分である。
おわりに
このページは自殺未遂をした家族(子ども)を抱える私の体験を振り返ったものである。
こんなプライベートなことを、ブログという媒体を通して全世界に公開しているなんてどうかしている、と自分でも思う。
私の個人的な体験を振り返ってもあの子が自殺未遂をした事実は変わらないし、それを受け入れる日が来るのもわからない。
でも、ずっと書き残しておきたいと思っていた。
少しずつ、あの日もその前からもずっと記録をつけていた手帳を元に記事にしていきたい。
コメント