車椅子にベッド上オムツでのトイレ・・・初めてだらけの入院生活 ICU退室〜2weeks

車椅子 子どもの自殺未遂の記録

今回は入院からだいたい2週間目までのことを記録していこうと思う。

リハビリ

一般病棟へ移り、まだすべての手術は終えていないが、コルセットが出来上がったということで、背骨の術後1週間も経たないうちにベッドの端で座るリハビリが始まった。

入院していた病院はリハビリに力を入れているとのことで、理学療法だけでなく、作業療法も人工呼吸器が外れてすぐに開始されたし、土日も関係なくほぼ毎日リハビリがあった。

コルセットは寝るときは外すのかと思いきや、一日中するものだと知って驚いた。

今は室内で空調が効いているが、暑い時期の外出はたまらないし、しばらく着けっ放しということは、洗濯もできない。

洗濯は付け置き洗いになる。

コルセットは採寸してオーダーメイドで作ってあるため、価格もそこそこする。

入院費同様、こちらも加入の健康保険で療養費の補助を受けるための申請が可能であるので、確認をしたほうがいい。

作業療法としては、まだベッドから動けないためベッド上で骨折した腕を自分で曲げたり伸ばしたり、動かしてもらったり、関連筋肉のマッサージをしてもらうものだった。

私はこの親以外の大人と接する時間を大切にしたいと考えていた。

あの子の生きている家庭・学校という狭い世界だけではなく、いろんな大人がいることを知って欲しかった。

あの子が親以外の人に安心して話すことができる大人がいると知って欲しくて、リハビリやガーゼ交換などの回診の時間はなるべく席を外すようにしていた。

一般病棟に移り、看護師さんは忙しくてICUの時のようにゆっくりと話しをしていってくれる時間はぐんと減ったが、若い療法士さんや医師との会話は楽しんでいたようだった。

リハビリの時間以外にも

「暇だし、早く動けるようになりたい。」

「起き上がれるかな?」

と、ベッド上で腹筋を使って起き上がろうと試みてみたり(もちろん、起き上がることはできない。)、この子は本当に死ぬことを考えていた子なんだろうか?と不思議に思うほど前向きだった。

今思うと、自分が負った怪我の状況に圧倒されて、死にたいとか生きたいとか、そんなことは関係なく、とにかくなんとかしなきゃ、なんとかしたい、と、目の前にある障害を一つ一つクリアしていくことだけに集中していたのだろう。

あの子は小さい頃から失敗や怒られたことなどすぐに忘れる子どもだった。

親としては反省しているのか?本当にわかっているのか?とイライラすることも多かったが、この時はあの子の特徴がいい方向へ働いていたと思う。

入院して2週間ほどで足の手術後の傷への圧迫を避けるための装置以外、体に入っていたすべての管が取れ車椅子へ移れるようになった。

片方の腕しか使えない、と思ったが、片方の腕だけでも使えるのだ。

ベッドへピッタリと車椅子を寄せて、あの子は使える片方の腕だけを使って器用に車椅子へ移動した。

最初こそ本人も私も要領を得ずスムーズに行かなかったが、やはり若いだけあってコツを掴むのが早かった。

午前中いっぱいは車椅子で過ごし、午後はそれだけで疲れてしまうようで昼寝をしていることが多かった。

もちろん、多発性骨折に加え、内臓や脳への損傷もあるためエネルギーをそれらへの回復へ回さなければならないため、必然的に眠っていたということもあるだろう。

顔の傷

あの子は落ちた時に本能で防御体制を取ったとはいえ、衝撃で顔面と頭部も強打していた。

といっても、眼球破裂もなくその程度は奇跡的に軽かった。

入院して早い段階で形成手術をし、その影響で手術前よりも顔が腫れていた。

目も腫れているので焦点が合わず、

「目が見えない。」

とあの子は不安そうに言ったが、入院時の眼科の検査で目の神経等には損傷はないため、腫れがひけば見えるようになることを伝えると

「よかったぁ。」

とほっとしていた。

術後3日目のガーゼ交換後のことだった。

「ようやく見れる顔になってきなぁー、って言われてズーンと落ち込んだー・・・」

「顔、どうなってるの?スマホでいいから見せてほしい。」

あの子の顔の傷はブラックジャックのようだった。

おまけに顔も腫れているし、目も腫れの影響で外側を向いてしまっている。

今ショックを与えなくてもいいのではないかと迷ったが、意を決してスマホを渡した。

だが、目の焦点が合わないこともあり、その時は結局自分の顔はよく見えなかったようだった。

ベッド周りの移動許可がおりるまで、その後しばらくあの子は自分の顔を見ることはなかった。

トイレの問題

入院当日はさすがに絶飲食であったが、人工呼吸器が取れた日には鼻から胃に入ったチューブを通して栄養剤を注入していた。

何度か手術のための絶飲食を挟んだが、それも無事に終われば都度口からの食事も再開された。

前かがみになれない、器を持つのも精一杯で食べること自体もリハビリのようだった。

それなりの量を食べられるようになると、次はトイレの問題が出てくる。

あの子は意識もハッキリしていたし、介助さえすれば車椅子にだって移れる状態だったが、なぜかずっとオムツをさせられていた。

予定されていた手術はすべて終わり、点滴も尿管もすでに必要ない状態だったが、しばらくそのまま入れっぱなしだったのもあったと思う。

点滴や尿の管が入っていたって下着は履ける。

病棟の看護師に言ったがうやむやにされるだけだった。

年頃の子であるし、その辺りの配慮をもう少しして欲しかった。

ある日面会へ行くと

「○○ち出たよ。5時頃に急にしたくなっちゃって。オムツにするかどうか葛藤したけど、よし!ってGOサインだした。」

信じられなかった。

夜勤の時間帯で人が少ないからかもしれない。

車椅子やポータブルトイレに移すことが手間だったのかもしれない。

ベッド上で排泄する患者用の便座というものがあるはずなのに、10代の子に

「オムツをしているから、そこでして。」

なんて言う年配の看護師がいるとは。

その看護師の振る舞いに関しては、以前たまたま廊下にいた患者さんの付き添いと思われるご家族の会話から耳にしていた。
同じく排泄に関することであった。

認知症である患者さんであったが、見守ればトイレまで行けるのに、「オムツでしろ。」と言われた、と。

あの子と同じ扱いだ。

パソコンを使うようになり、友人とスカイプ等でやり取りするようになった時にこのオムツ内排泄に関することをジョークを交えて伝えていたので、本人の中で笑いにすることで消化したのだろう。

排泄も含め、汗もよくかいていたし、睡眠のパターンも変わり、体内の代謝のリズムが入院前に戻るまでしばらくかかった。

その後も夜中や早朝のもよおしは何度かあったが、ポータブルトイレへ移動させてもらうことができたので、オムツないでの排泄はその一度きりだった。

患者の1番近くにいるはずの看護師は、たくさんの中の1人ではなく一人一人尊厳があるということを忘れないでほしい。

私たち家族の様子

主人は毎日仕事が終わると見舞いへ行った。

帰るときは必ずあの子の頭を撫でてから病室を出た。

とにかく今は先のことはいいから、静かにゆっくりと心と体を休めてほしい、いろんなことから解放されてほしい、と考え、主にコメディ映画をレンタルしては病室へ置いて入った。

最初は病棟のDVDプレーヤーをお借りしていたが、無料でずっと使用できますよ、と声をかけていただいたが、さすがに長期にレンタルするわけにはいかないし、操作性も今ひとつだったため新しいものを購入した。

病室にいる時はこれといって話すことはそれほどなく、2人でビデオやテレビ番組を見たりして過ごしていたようだ。

主人も思春期の子どもとの接し方に戸惑いがあったが、彼なりの愛情表現だった。

ただ、残念なことに父親が選んだコメディ映画は今ひとつあの子の心を掴むところまで行かず、私が選んできたマーベル作品や、同級生から勧められていたが見る機会がなかったアニメなどのレンタルに置き換えられていった。

映画は見終わるまでに2ー3時間かかるが、アニメは一本20分程度で終わるのもこれぐらいのまだまだ休息が必要な時期には適当なのだと思う。

下の子は入院当日以来病室に行くことはなかった。

ただ、やはり心配な気持ちはあり、自分の好きなコミックを貸してあげる、と私に託したり、あの子のリハビリにとノートに絵を描き塗り絵を自作するなど気遣いを見せていた。

この頃は母が泊まり込みで主に下の子のフォローをしてくれていたので、私が家ではほとんど横になっていても、遊びの相手を根気よくしてくれ本当に助かった。

私はといえば、まだまだ精神的に不安定な二週間だった。

一日中頭が重く、心がざわざわとし、突然涙が出てくる。

その日1日にやることがとてつもなく多いような気がして頭がパンクしそうになり、紙に書き出しては心を落ち着かせた。

下の子が遊ぶおもちゃの音が心臓に響き、イライラが増強し、下の子の些細な言動で一気に感情が爆発した。

胃痛・頭痛・めまい・吐き気はしょっちゅうだった。

印象的だったのが、お見舞いのケーキを少しだけ食べて駐車場へ戻る途中のこと。

急に手足に力が入らなくなり、歩けなくなってしまった。

恐らく、それまでそんなに甘いものも食べていなかったので、急激な血糖上昇に体がついていかなかったのだろう。

今思い返しても、この頃の実感を伴った回想ができない。

毎日よい方向へと変化するあの子の状態に一生懸命ただただアジャストしていたと思う。

おわりに

このページは自殺未遂をした家族(子ども)を抱える私の体験を振り返ったものである。

こんなプライベートなことを、ブログという媒体を通して全世界に公開しているなんてどうかしている、と自分でも思う。

私の個人的な体験を振り返ってもあの子が自殺未遂をした事実は変わらないし、それを受け入れる日が来るのもわからない。

でも、なぜか書き残しておきたいとずっと思っていた。

少しずつ、あの日もその前からもずっと記録をつけていた手帳を元に記事にしていきたい。

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